にょ!

大相撲、カメラ、音楽、旅、暮らしなど。奇数月は 相撲ネタ多め。

    当時31歳の私が経験した、母の癌。告知編「ガガガガーン」

    万人に見られるWebという場所で、身内の不幸について書くことに眉をひそめる人もいるかもしれない。そう思ってずっと下書きに未完成のままの記事があります。それは、ともにょの人生の中で避けることができない大きなできごとでした。実は昨日午後に父親が緊急入院し、そろそろ親の老いや病気と向き合わざるをえない状況になってきたかなあ、なんだかあの時と似てるなぁと思い、やはり下書きに保存してあるものを外に出すことにしました。実はまだ書きかけでもあるので、書き進めながらの公開になります。私のための振り返りのためでもありますし、似た境遇の娘さんたちに読んでもらえれば、と。

    (父は癌ではないです) 

    皆さんの親御さんが病気になったときに、同じような人間がどうしたか、あるいは当時の私の心情や悔いていることなどを知ってもらえれば、、

    癌と言っても まったく同じケースなんてないので、あまり参考とかにはならないかもしれないけど、あなたもひとりじゃないよ、ともにょはこうだったよ、っていうのを読んでもらえたらなと思います。長いのでいくつかに分けて更新します。

    先に結論から言うと 母は発覚から2年後に亡くなりました。でもそれは癌が見つかった時点でステージ4だったのと、そのとき原発(癌の親分みたいなの)である胃の摘出手術をしなかったからです。いや、もちろん、手術をしたからといって今もまだ元気に生きていてくれていたかは わかりません。ただ「癌になったら希望はない」 とは絶対に思わないでほしいです。見つかったときのタイミングと進行の速度、本人の持つ気力体力、治療や予後によっても変わります。すくなくとも私はそう思います。

    もう母 本人がいないので本人の視点では書けませんが・・・

    あと、妹や父親や母のきょうだいの立場だったら、また違う見え方になるでしょう。あくまで娘(長女)である私から見た話になります。ちなみに当時、私はまだ結婚前で実家にいましたので、父・母・私の家族3人で生活していました。

    発症前の予兆のようなもの

    2012年の春、母の気分がすぐれないことが多くなりました。どうも職場でのストレスでモヤモヤとよく悩んでいましたし、些細なことや世間体を気にしてばかりいました。

    母親は、もともと周りに非常によく気を使う性格でした。その上、昔はポジティブでした。それが この2年ほど前にパートを辞めてフルタイムになり、新しく入った職場では、自分以外の先輩ふたりが対立関係にあって、間に入って板ばさみのようでした。休日はリフレッシュになるよう一緒に買い物にでかけたりしていましたが、4月ごろには 気分だけではなく体調にも出始めました。休日に家で横になっていることが増え、そしてだんだんネガティブになっていきました。

    母は以前も精神的に参って寝込んだりしたことがあったので、うつっぽい症状が出ているのかな?と思い、無理に励ましたりはせずに、私も愚痴や悩みなどの話を聞くだけでした。母も「私のいつもの気分の波だから気にせんでいいよ」という感じでした。

    私は 何かスーパーで買ってくるものがないか聞いたり、やっておくことがないか聞いたりするものの、その不調が癌からきているとは分かりませんでした。

    翌月の5月、体調不良が次第に悪化し、私の従兄弟の結婚式も、行けるかどうかわからない状態になっていました。なんとか頑張って行ってましたけど、当時の写真を見ても母の表情がぼんやりしていて、他人のように見えます。やっとの思いで参列したのでしょう。 式が終わったあとも寝込みました。どう考えても長引きすぎです。あきらかに精神的な波の話ではないと思いました。母は「これは精神的なものだから」と言って、断固として心療内科にしかかかりませんでした。しかしここまで固辞するのも 何か変な予感があったのかもしれません。

    心療内科では基本的に 精神的なお薬の処方になりますので、もっと早く違う病院に行っていたら、このとき母がこんなにつらい思いをしなかったのにな・・と思います。処方された薬を飲んでいたので「この不調はその副作用なんだ」と言って聞きませんでした。今思えば、この頃 母はどんどん意固地になっていました。滅入ってるし、周りが嫌がることをわざと言うし、食欲もなかったです。週末寝込んで平日は薬を飲んで無理矢理 仕事に行くという感じで、私は「こんなの おかしいよ、仕事辞めなよ」と言いました。母は「私がいなかったら会社はどうなる」と言って辞めませんでした。母のメールの文面の絵文字に、汗マークや困り顔マークが増えました。その後、絵文字なしの短文に変わっていきました。

    異変

    2012年の夏です。あるとき、母親のお腹がはれていることに気づきます。

    父親が母に横になってもらいお腹を見ました。水枕のように右側だけポヨンとしていました。それも、あまり食欲が無いのにアボカドくらいの大きさのようになっているのでなにこれ変だよね、ということになり、もともと母は婦人科系が弱かったので、婦人科に行くことになりました。痛みはありませんでした。それが7月ごろです。かかりつけの婦人科では2年前に「問題はないが 定期的に検診にくるように」と言われていて、でもそれから母の仕事が変わり、フルタイムで忙しくなっていたので、それを最後に婦人科には行ってなかったようです。結局、翌日に行った婦人科では卵巣が大きく腫れているということが分かりました。その腫れの様子から、詳しい検査をしたほうがいいということで、同じ区内にある少し大きな病院に紹介されました。

    雨の病院

    しっかり覚えているのは その大きな病院について行った日、強い雨だったということ。この年の夏はどしゃぶり続きで大変でした。それで朝 父の車で送ってもらい、仕事がある父はそのまま会社へ。私はたまたまその日が代休で休みだったので、一緒に付き添っていました。そのとき母が「もしかしたら癌かもしれない」と静かに言いました。私も一緒に検査室の前で待ったり待合室で待ったりしているとき、時間が異様にかかったことや母の具合から見て、そうかもしれないと思いました。「そうかもしれないね」と言いました。

    長い長い検査の後、母だけが先生に呼ばれて病気の説明を受けました。そして扉を開けて母が私を呼んで「中で一緒に話を聞いてくれる?」と言いました。それで「あぁ 癌だな」と思いました。

    説明では卵巣に腫瘍が見えるということ、それが大きさや精密検査の結果などから悪性である可能性が高いということ、もっと詳しく検査をし、必要であれば手術になるということなど、少し深刻な話をその女性の先生が 事務的に、且つハッキリ言いました。昔のドラマみたいなシリアスな感じではなく、パソコンやレントゲンデータを見ながら役所の窓口で手続きを行うくらいの 感じで。実際の告知はこんなもんなんだな・・・と思いました。母はしっかり話を聞いているようでした。昔は本人に告知するかどうか家族に聞いたりする時代でしたが、今はハッキリ本人に説明して治療に入るんですね。(あとからわかったことですが、母本人は頭が真っ白になって何も覚えていない、何も頭に入ってこなかったそうです)

    翌日に国立がんセンターに行くよう紹介状をもらい、帰宅しました。私の頭の中では 今思えばパニックだったのだと思いますが、いかにも冷静に「山笠を見に行けないかも、連絡入れなくちゃ」とか「父親が仕事休めないなら あした私が会社休んでがんセンター付き添おうかな」とか思ってました。母には「ガガガーーンやね」とか 意味の分からないジョークを言ってました。

    告知を受けて

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    母はショックを受けましたが、実際は本当に事態を飲み込むまで 時間がかかりました。2日くらいかかったと思います。告知当日にショックが大きかったのは、父のほうでした。その夜父は遅くまで帰ってきませんでした。なかなか連絡もつかず、私と母の二人がリビングで帰りを待ってました。次第に私の不安が大きくなりました。深夜になってようやく父親が帰ってきました。お酒に酔って呂律がまわっていません。なんでこんなときに!と私は責めて泣きました。父も泣きました。私は張り詰めていた緊張が溶けたようにこのとき大泣きしてしまい、それを見た母は涙を流さず「大丈夫よ」と私をなだめました。私も悲しかったけど、本当に一番ショックだったのは、父だったろうと思います。その日に私が取り乱して泣いてしまったことは 悪かったなと今では思いますが、そうすることで父も大きな声で泣けたので、今となっては自然なことかもしれないです。ただ、それによって気配り100パーセントの母は、これ以上家族を悲しませないように自分の本音を出さないようにしてしまったかもしれないです。がん患者の内面的な孤独はこのように始まっていきます。でもこれは、どうしても避けられません。家族は患者ではないからです。

    妹は県外に嫁いでおり、まだこのときは母の病気について知りませんでした。父親が「あいつには、まだ言わなくていい。嫁いだ人間なんだし、育児もあるんだし、向こうの家にも広まる」と言い、母が病気になったことが周囲に広がらないようにしたのです。周囲に余計な心配をかけさせたくない、弱い姿を知られたくない、という配慮からのとっさの行動でしょう。このことで、急に世界が家族3人だけの世界になりました。しかしこういう思考(家長や長女である自分がしっかりしなければ!という思考)は 後々人を頼れなくなるので あまり良くなかったんじゃないかな、と思います。今思うのはこのとき病院の待合室ですぐにでも妹に電話をすべきだったということです。だって嫁いだと言っても妹も家族なんですから。

    ※このときの経験から、今回の父親の件に関しては すぐに妹に連絡を入れました。

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